僕の失敗
先日のブログでお話したように、以前委員長時代に、失敗から学ぶ的な事業を私の独断で変更させていただきました。なので、ここでその事業を開催したいと思います。
ただ、今の仕事の失敗を書いて会社に影響あると怖いので、前職の失敗から学んでみましょう。
以前、前職時代大きな売り上げを飛ばした記事を書きました。
この記事では他社に取られた原因について触れていません。
その原因を考えてみましょう。
原因について考えるときに重要なのは他律要因に逃げ込まないことですね。また、原因と現象を混同してもいけません。これが原因と思っても、それは現象かもしれないので、さらに深く原因を考える必要があります。
その取られた案件は、もう10年以上同じ仕組みで同じ製品で受注していました。記事では別部門のとばっちりもあったと書いてますが、その部分はちょっと置いときます。
さて、他社に取られた原因ですが、まず考えられることは、製品納入部署を取り巻く環境について営業担当者の私の把握が甘かったことが考えられます。当時、コストダウンや環境負荷低減のために生産技術的立場の人は会社目標と照らし合わせ様々な取り組みをしていました。その中での製品の変更だったのです。さらに、10年以上安定的な売り上げだったのでわざわざこちらから新たな製品の提案などはしていませんでした。
しかし、これは原因ではなく現象です。
さらに深堀します。
キーマンは担当部署の課長でした。大きな会社ですので、課長となると簡単に面会することがなかなかできません。また、安定していると思い、基本的には表敬訪問的側面での面会が多かったと思います。他社の動きも把握できていませんでした。面会強度が弱かったと思います。
さらに深堀。
面会強度が弱いのは、こちらからお客様の現状と目標に対し新たな提案をしなかったことが考えられます。今さら使ってもらっているものに対し、新たな提案をする必要がなかったですし、当時それに代わる製品もありませんでした。提案しようがないと思っていたのです。
そんな中、若造にとってはその人にアポイントを取るのは大変でした。あれこれ理由をつけては面会して頂きますが、それは自己満足にすぎませんでした。会うということを目的にしていたんだと思います。そんなことを繰り返すうちにその人とのアポイントは更にむつかしくなっていきました。当然です。会ってもしょうがないと思われていました。
面会がふわっとしたものになったのは、お客様の取り巻く環境や方針などから来る問題点と、この製品の今後のフォロー体制や考え方などを明確にしていなかったためだと思います。
なぜ、明確にできなかったのか、
この先もずっと出荷されるであろうとの安心感からきた危機感の欠如が考えられます。
なぜ、危機感が欠如していたのか。
大局的な考えがなかったからだと思います。この製品がもしなくなると営業所にどう影響があるのか、とか、他の顧客への影響とか。
大きく見ることができず、目の前の事象にのみ考え、その先のことについて考えが及んでいません。
それは、明確な考えがないからだと思います。当時であれば営業マンとしての考え方
生き方。どういった営業でいたいのか。
ちょっとずれいていたらすいません。
このどういった営業でいたいのかが明確でない、ということが原因となります。
ということでいいでしょうか^^;
ちなみに、このお話後日談がありまして、この部署での売り上げをとった他社が調子に乗って違う部署のある製品へも攻勢をかけてきました。当時の私はキレ気味になってそのキーマンに接待三昧でなんとか事なきを得ました。結局こうやって無駄なお金と労力を使わなくてはなりませんでした。
言葉
言葉は言葉を呼んでこの会場を飛び回っています。
言葉量という日本語があれば三島由紀夫のそれは大変なものだったと思います。
52年前、東大駒場キャンパス900番教室に集まった1000人の東大全共闘の前に三島由紀夫は立ってました。
その年の1月に発生した東大安田講堂事件。東大本郷キャンパスの安田講堂を占拠した学生に対し大学の要請を受けた機動隊が出動し、激しく衝突しました。結果、封鎖解除され陥落してしまうのですが、その熱をさましてはならないと、東大全共闘駒場共闘焚祭委員会が発足されます。
そして、古い知性を粉砕し、新しい知の世界を切り開く討論会が企画され、当時スーパースターで全共闘とは逆の右派であった三島由紀夫に白羽の矢が刺さったというわけです。
右派左派、その辺りのことはちょっと置いておいて、討論会の中で冒頭の一文を発言しました。言葉の有効性を信じこの場に来た、とも言ってました。
どんな質問にも淀みなく自分の主張を展開します。今で言うボキャブラリーが超豊富なのです。でも、淀みないその裏には、おそらくすこぶる強いアイデンティティが存在していると、私は感じます。
悲しい結末もその強いアイデンティティが影響したのでしょうか。
そんなドキュメンタリーを見ました。
中国ブロック大会ぼっけ~えぇでいばら大会
井原市は私もサラリーマン時代たびたび訪れた場所です。
当時金属加工に使用される工業薬品の営業をしていたわけですが、岡山県は自動車部品工場など金属加工の工場も多かったと記憶しています。井原市にもそんな自動車部品工場があり、そこへ定期的に訪問していました。そこの近くに馬肉専門の焼き肉屋があって、何度か行った記憶があります。
そんな仕事の関係で行っていたので繊維業が盛んとは知りませんでした。
今思うと、代理店の1つは織機に使用するオイルの代理店だったり、化繊ノズルの加工会社もあったりと、そういえばそうですね。
現在は井原デニムのブランドで世界へ進出しているとのことです。なんと今回のいばら大会のドレスコードの1つにはデニム素材のパンツやスカートが入ってました。粋です。
そんな井原市で中国ブロック大会が本日開催されました。
私もWEBで参加させていただきました。
屋外です。
屋外での開催はとても勇気のいることです。雨や風の影響をもろに受けるからです。もちろん雨だった時の対策も考えられていたと思いますが、本当にその勇気に敬意を表したいです。
西条大会の幟も立てて頂いてありがとうございます。
!!!前の官房長官 テレビでよく見る人です。
これまた昔よく行ってました。
木材港があって、木がたくさん浮いているのを覚えています。
とにもかくにも
井原YEGの皆様大変お疲れ様でした!!!!ありがとうございました。
第1分科会
四国ブロック大会西条大会は12月2日・3日に延期をさせて頂きました。当然分科会もその日程に延期となります。
しかしながら、第1分科会の石鎚登山はその時期に決行できません。なぜならば危険だからです。
そこで、第1分科会のみ日程をずらしております。
ご案内の通りですのでご存知の方も多いと思いますが、この分科会のみ登録締め切りが10月22日(金)(大会の登録締め切りは11月12日です)と来週に迫っておりますので、ここで、改めてご案内させていただきます。
まず最初に、第1分科会の日程ですが、11月3日(水・祝)となります。
紅葉シーズンです。
以前、四国ブロック大会の成功を祈願してみんなで登ったのは8月。
一面緑の世界は圧巻でしたが、今度は紅葉、わくわくが止まりません。
当時はゲキアツでした(でも上の方は涼しかったです)。11月は暑さよりも寒さでしょうか。ただ、歩きますのであまり着て汗をかくと休憩の時に逆に寒いそうです。少し寒いくらいの格好で歩き続けて、休憩の時に羽織る。が良いそうです。
予定ではお昼過ぎごろに山頂に到着します。
山頂ではあらかじめご用意したお弁当をみんなで食べましょう。絶対うまいですから。ちなみにお弁当代は登録料に含まれております。
石鎚山登山は、心願成就だけではなく、アクティビティとしても本当によくできています。人気があるのがわかります。
気になっていたけど今まで行けてなかった方も是非この機会にお越しください!
宜しくお願い申し上げます!
※8月に登った時に書いたブログに詳細を記載しております、是非ご覧ください。
水
西条市は大変水に恵まれております。
水が豊かな場所には美味しいお酒がありまーす♪
西条市には日本酒の酒蔵が5件もあって美味しいお酒を作られています。ぜひぜひ飲んで頂きたいです。
そして水が美味しい西条市には美味しいビールもありまーす。
アサヒビールの四国工場は西条市にあります。その横にはお肉を食べながら出来立てのビールを飲めるアサヒビール園という素敵な場所があります。
今日は、ちょっとあっていきました!
ジンギスカンやしゃぶしゃぶを食べながら飲むビールはアレです!
そして、四国ブロック大会の分科会にもあります!
スタップ細胞はありまーす。
とても良い時間を過ごすことができました。
すいません、酔ってるのでこの辺で。
僕の失敗
2回目の委員長を拝命した時のことです。
当時の会長は髙橋道夫先輩。
ちなみに、年度は4月から始まりますが、その準備などの為に実際は12月に役員決定1月末に委員会メンバー決定、その後第1回の委員会。というスケジュールで進んで行くことが多い西条YEGです。
その時も、12月に決まった役員のみ(委員長と副委員長2名)で集合しました。ご飯を食べながら、この委員会でどんな事業をしようか、と話し合ってました(たしか研修系の委員会だったと思います)。そう、場所は会議所となりの昇竜。すると副委員長の1名の方から成功談はよく聞くけど失敗談はあんまり聞かないよね。失敗したことを講師に話してもらって、そこからの学びを得るというのはどうだろう。とアイデアが。私ともう1人の副委員長も、お~いいですね。それで行きましょう。と決まり、具体的には委員会が始まったらみんなで詰めよう。となりました。
駄菓子菓子
この事業は実現しませんでした。なぜならば、私がやっぱりこれやりたい。ってちゃぶ台返しをしたからです。当初のアイデアで行こうとなっていた副委員長は????って感じだったと思います。そのうちの1名は安田先輩でした。先輩は当時も、委員長がやりたいんならそれやろや。って温かく言ってもらえました。先輩その節は申し訳ございませんでした。
ちなみに何をやったかというと、異例の通信講座。
「学ぼう」のスローガンのもと、例会アワーだけではなく家に帰ってからも長期間学んでもらいたいということで通信講座を実施しました。始まる前の例会アワーでは産業能率大学の方に来て頂いて学ぶ意義みたいなものを講義して頂いたと覚えています。
優しい先輩のお陰で何事もなく事業を実施することができましたが、あの時あの一言がなければ委員会自体がどうなっていたかもわかりません。
委員長はやりたいことをやれる。的なバイアスがかかってしまってましたが、いや、実際できましたが、その為に必要なこともあるんだと教わりました。
ありがとうございました。
一年前
諸事情で最近は毎日解体工としてお家を解体しています。肉体労働派なんですが手壊しの解体はしんどいですね。解体工万歳です。うりゃー、くそやろー、と心の中で叫びながら壊しています。見た目と性格はアレなんですが、ザ・男みたいな仕事をしております。
さてさて
ちょうど一年前に、と書くと、この道を通った夜、とどうしても続いてしまう虎舞竜な私ですが、1年前の10月10日は四国ブロック大会丸亀大会でした。※いやいや10日に書けや、って言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。すいません。祭で浮かれてました。
当然白石直前会長もブログに書かれています。
百聞は一見に如かず - ケイシロウのしょうもない話し (hatenablog.com)
文章にできない感動があった、そう書かれている通り、ほぼ写真。みなまで言わない様式美がうかがえます。
いやごめん。
本当にいい写真いっぱいなので是非ご覧ください。(久しぶりにいつかの昼食シリーズ見たくなってるんじゃないですか。)
そして丸亀YEGの皆さま、その節はありがとうございました。
そう、1年前、丸亀の地で受け取ったバトンを、我々はまだ手放すことができず握りしめたままです。離れなかったらどうしましょう^^; とはいえ指の形の跡が残りそうなほどのバトンをしっかりと次年度開催地の須崎YEGの皆様へ渡したいと思います。
その日、愛媛県大会新居浜大会が残念ながら中止となった関係上できなかった県連旗の引き継ぎ式も執り行われました。次年度開催地八幡浜へと引き継がれました。
どんな状況でも、しっかりとバトンを渡すことで歴史は続いていくのでしょう。私も無事ブログのバトンを渡せるでしょうか。